しほこ十キロ

                           

 

常に横には、丸くて白くてモチモチしたボールのような生き物がいる。自然とわたしの横にいる。それには感情があってうれしかったり楽しかったりするとぽうっとピンク色に染まったりする。おなかやこころが痛かったりすると青く光っていたりして、わたしはそれを見て彼女の感情を推測している。彼女のことは「しほこさん」と呼んでいる。

 

いつからか突然現れたのだ、しほこさんは。隣にぽつんといた。ボールのような生き物のような物体を突如見るようになってしまい、自分の気がおかしくなってしまったのかと思ったけれど病院に行くのはやめた。理由はある。

まず、しほこさんには確実な質量があるし触れる。触るとくすぐったそうなそぶりを見せたりして案外かわいいものだ。目や口はなく、完全な球体だけど飛んだりはねたり小さくなるから意外とわかりやすい。触れるっていうのは多分、そこにあるんだろう。一緒にいるうちにかわいくなってしまった。

もう一つ。しほこさんはわたしの一部、だったものかもしれない。

 

わたしは去年の誕生日、恋人に振られてしまった。初めて、生まれて初めてちゃんと失恋した。振られてから最初は、「こんなものか」と思って普通に学校に行ったり、友達と遊んだり普通に過ごした。飲みの場では誕生日に振られた事を笑い話にもした。だけど一ヶ月ぐらい経ったころ、突然、朝起き上がれなくなった。体が重くて重くて。そしたら情けなくて、涙も止まらなくなった。泣きすぎて体中が乾いてしまった。だけど食事ものどに通らない。無理に食べたり飲んだりしようとすると吐いてしまう。元恋人の事を思い出さないようにすればするほど頭に懐かしい声が響いてしまう。だから出来るだけ寝続けた。二週間ぐらい続いてわたしは二キロ痩せた。もともと少しだけ平均より体重が重めだったわたしはこの機会に、と思って半年かけて十キロも痩せた。痩せると良いことだらけだった。服が似合うようになった。短い髪も似合う。今まではなんとなく引け目を感じて入る事をためらっていたおしゃれな服屋や喫茶店にも入れるようになった。失恋で痩せるなんてアホみたいだが、それでも少し今の自分は「イケてる」様な気がする。実際は気がするだけなのだ、なんだって。

それで突然「しほこさん」が現れた。モチモチとしているしほこさんは大体十キロぐらいある。小さいけど意外とズシっとしていて見た目の割に重い。中型犬くらいある。わたしが痩せたりするとしほこさんは少し重くなる。反対に少し太るとしほこさんは小さくなって軽くなる。わたしと連動しているのだ、この十キロの固まりは。わたしの脂肪だったものが、わたしがどんどん痩せて外に出て、出来たものかもしれない。おかしいけどそう思った。ダイエットしているころにずっと感じていた、「消えていったわたしの贅肉さんたちはどこに行くのか」という疑問。しほこさんの登場は納得いくものだった。脂肪の「しほこ」。女性らしい名前にしてしまったけれど恥ずかしそうにして萎んだりするときは女性らしくかわいらしく感じる。

何より今は隣に彼女がいると安心する。

 

 

しほこさんは人に見えたり見えなかったりする。見える人は少ない。大学にもたまにいて見える人は声をあげたりはせず、小さくうなずいたり、「あぁ」みたいな納得したような顔をする。別にわたしも見えていることに気づいてもしほこさんについて特別聞いたりはしない。自分で納得がいっているからいいのだ。別に。

しほこさんは口がないから話す事は出来ないけど、人の言っていることは理解できるらしい。しほこさんは、今はわたしの後ろを跳ねながらついてくるけど前はわたしの肩に乗ったり、かばんに入ってくるので重くて大変だった。重いから肩に乗るのはやめてくれと伝えたところ、しほこさんは今のスタイルになった。お笑い番組を一緒に見ているときは小刻みに震えて笑っている。結構賢いような気がするし、自分の一部だったものだから笑いのつぼとか悲しみのレベルとか似ていて一緒にいて楽しかったりする。

 

 

しほこさんと大学に行く。駅まで歩いて電車に乗って行く。いつもどおり三限の授業がはじまる三十分前について学食のカレー食べていると、後ろから

「あ」

と自分に向かって言われたような気がする。振り返ると、わたしを振った憎き元恋人が立っていた。

 

 彼女も声をかけるつもりなんてなかったんだろう。しまった、というような顔している。相変わらず彼女は先に言葉が出るタイプらしかった。一瞬気まずそうな顔をしてからわたしの目の前の椅子を引いて座る。振られたのは半年前、少し髪の毛が伸びている。

「ひさしぶり」

自分から振ったんだから声なんてかけないでほしい、相変わらず頭が腐っていると思ったけれどわたしも一応

「ひさしぶり」

とあいさつを返す。しほこさんはうつ向いているように見える。元恋人は安心したらしかった。少し緊張のとけた顔で続ける。

「元気だった?痩せたね、なんだかしゅっとしてる」

「十キロ痩せました」

「そうなんだ…、へぇ…十キロ…そうか…ふーん」

わたしの他人行儀な言葉遣いに元恋人は気まずそうに相槌をうっている。気まずいなら早くどいてくれ。しほこさんもしぼんできてしまった。かわいそうなしほこ。

元恋人はわたしから少し視線をずらして、恥ずかしそうに言う。

「わたしもその子みたいなこと生活した事があるよ。その子より少し小さかったけどね。大丈夫だよ、その子、そのうち消えちゃうと思うよ。」

 

しほこさんのことだ。  

 

「しほ…この子は俺の一部なんだよ、消えないよ」

「ううん、違うの、その子。あなたのつらい気持ちがもう少し消えたら、一緒に消えると思う。こんなに思ってくれてありがとう。ごめんね。つらい思いさせて。もう少し一緒にいてあげてね、じゃあ、この子よろしく、ほんとにごめん」

 

元恋人は言いおわるとさっと席を立って行ってしまった。しほこさんはまだ悲しそうにしている。相変わらず、ふわっと言葉を濁らす。変なやつだったな、と思って少し涙が出ている事に気づいた。周りに見られないように慌てて拭う。しほこさんを優しくなでてやる。少し顔色がよくなったように思った。そういえばしほこさんはわたしに似てるけど少しずつ違うものだ。しほこさんはたまたま十キロなだけでわたしの一部だったものではないのかもしれない。

 

「しほこさん、もう少しだけ一緒にいてくれ」

しほこさんは小さく頷いた。しほこさんは丸くてかわいい。